第2章 戦後の復興

近畿の未来を照らした、ヤギの再起と躍進。

與三郎が唱えた「終始一誠意」「堅実第一主義」の精神を引き継ぎ、戦中・戦後の最も多難な時期を乗り越え、ヤギをさらなる躍進へと導いた二代目・杉道助。その後のヤギの歴史を語るうえで欠かせない男であると同時に、大阪、そして日本の復興の歴史においても重要な人物であった。杉の大叔父は、高杉晋作、伊藤博文、山形有朋など、明治期の日本を主導した人材を輩出した松下村塾の区長である吉田松陰。少年時代は萩で過ごしたこともあり、松下村塾を訪れる学者や学生、祖父や父からも松陰の人となりや思想を聞いて育った。そのため、「至誠にして動かざるものはいまだにこれあらざるなり」という松陰の一語を自身の生涯の教訓としていた。

杉道助(昭和9年1月)
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杉道助(昭和9年1月)
杉道助筆 松下村塾
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杉道助筆 松下村塾

杉が二代目に就くまで、與三郎の逝去から3年間という長きに渡って八木商店の社長の椅子は空席の状態であった。しかし、1936年に起きた2.26事件を皮切りに、日本の政治経済が急激に変化する中、時代の要請と社内体制の強化のため、経営手腕も高く、社員からの信望も厚かった杉に白羽の矢が立つことになる。杉自身もまた社員を心から信頼し、社長就任時には「店の経営は任すから、それぞれの立場で研究、工夫、努力してほしい。でも、すべての責任は自分が背負う」と話し、こう訓示した。

 

1.決してウソを言わないこと。何事も正直、率直に話してほしい。

1.夜になって眠れないようなことはするな。

1.従業員にはそれぞれ家族のあることを忘れてはならない。

1.功を焦らず、急がば回れのことわざどおり、じっくりやれ。

1.火の元用心に気を付けよ。

 

この訓示からも杉がいかに社員想いであり、信頼関係を大切にしていた経営者であるかが伺い知れる。

杉道助が社長に就任した頃の事務所風景
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杉道助が社長に就任した頃の事務所風景

杉が社長に就任した1938年、戦争は日々激化の方向にあった。同年4月に公布された国家総動員法によって国民はもとより企業もまた厳しい統制下におかれ、綿花、羊毛など、主要な原料を海外に依存する繊維業は最も大きな影響を受ける。次第に自主的な営業が困難になるにつれ、日本綿織物商業組合連合会でも、統合によって4937軒の業者が104軒に激減。そんな中において、八木商店は杉の采配のもと、中央配給統制会社の代行機関として生き残り、戦後、高度成長の追い風と共に躍進の道を歩むこととなる。

 

杉が発展を願ったのは自社だけにとどまらなかった。焼野原となった大阪、そして関西の経済再建の旗振り役として、杉は1946年から14年にわたり大阪商工会議所の会頭を務め、“近畿は一つ”という大きなビジョンのもと、東京に遅れをとっていた近畿圏の復興に尽力した。復興に指導力を発揮した杉は、大阪経済界の重鎮の一人である五代友厚の再来ともいわれたほどであった。やがてその影響力は国政にまで至る。1951年以来続いてきた韓国との国交正常化のため、財界人からの起用を決めた政府からの要請に、杉は二つ返事で受託し日韓交渉の首席代表を務める。その後、杉が80年の生涯を終えたのは1964年のこと。息を引き取るわずか半月前まで現在の日本貿易振興機構(JETRO)の総会で議長を務めるなど、最後の最後まで日本の未来を想い、第一線を全うしたのだった。

復興が進む紡績工業
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復興が進む紡績工業
朴韓国大統領と会談する杉道助(昭和36年11月)
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朴韓国大統領と会談する杉道助(昭和36年11月)