紡績糸の商売を始めた與三郎は、綿糸の品質にも徹底的なこだわりをみせた。当時の日本在来の綿糸は糸車で手引きしたものでぶくぶくと膨れているが、與三郎が目をつけた鐘紡(その後、カネボウ株式会社となり、現在はクラシエ)の糸はよく撚れており、非常に質が高いものであった。ところが、いっけん痩せて見えることから、世間ではその真価が認められなかったのだ。そこで、與三郎は、「鐘紡の糸はよく紡いである」という糸の鑑識眼を持った糸商人の評価を利用するよう鐘紡の兵庫支店支配人である武藤氏に進言。誤った観察にとらわれている需要家たちに対して宣伝戦を開始すると鐘紡の糸の評価はみるみる高まり、鐘紡の名と糸は世の中に広まっていった。與三郎は鐘紡製品の取扱いに全力を注ぎ、いつしか鐘紡は日本有数の企業へと成長する。
與三郎の挑戦心はとどまることを知らず、その後も勢いを増していく。1895年には、日清戦争の終結と同時に海外輸出に踏み切るなど、「堅実第一主義」「終始一誠意」を礎に、常に新たな挑戦によって事業を拡大していったのであった。