どうせはじめるのなら紡績糸の商売をやろう
新しい事業というだけでも張り合いがある

創業者初代社長<br/>八木 與三郎
拡大
創業者初代社長
八木 與三郎

米穀商を営む家で生まれ育った創業者
八木 與三郎の決心から100余年。
「終始一誠意」を貫き、皆の力、皆の積み重ねで今日を築き、明日を拓いてきた。

創業1893年10月、資本金2万円であった。
間口2間半(約4.5m)、家賃月8円25銭。
ささやかな店舗だったが、これが当社の歴史の第一歩となった。

與三郎には、生涯中、心魂を打ち込んで交わった人がいた。その人物を崇拝していたと、與三郎伝には記されている。武藤山治氏である。
武藤山治氏は、明治、大正、昭和の実業家・政治家で1894年鐘淵紡績㈱の新工場建設に当たり兵庫支店支配人となる。以後、鐘紡を日本有数の会社にし、生涯を紡績業の発展に尽くした人物である。

当時鐘紡も創業期であった。鐘紡の糸は技術的には申し分ない立派なできなのに、やせているといって市場はなかなかその真価を認めず、他社の製品よりも下値でないと買ってくれなかった。
元来、日本在来の綿糸は、糸車で手引きしたもので綿の繊維がよく撚れておらず、ぶくぶくと膨れている。それに慣れている世間の目にはどうしても鐘紡の糸はやせて見える。

創業者與三郎は、「鐘紡の糸はよく紡いである」という糸の鑑識眼を持った糸商人の評価を利用するよう武藤氏に進言し、誤った観察にとらわれている需要家たちに対して宣伝戦を開始し、鐘紡糸は優良であるとの評価を得て、その声望はますます高まったのである。
與三郎も鐘紡製品の取扱いに全力を注ぎ、鐘紡との関係を深めていった。「八木商店の今日あるは、一に、武藤氏の好意誘えきによることも明らかである」と與三郎伝は記している。その間、1898年には、武藤氏とともに最初の外遊となる上海商業視察を行い、このとき見た英人経営の紡績会社の様子を後の会社経営に大きく役立てた。

1901年頃の八木商店
拡大
1901年頃の八木商店


1896年、南久太郎町2丁目に土地を購入し新しい店舗を構えた。さらに1901年に店舗を新築した。当時の店員であった渡辺栄(後の取締役)が、書き留めた『三ツ引出しの記』という手記がある。当時の店内の様子がうかがえて興味深い。

「店の間は24畳敷で、その半分奥の方を2つに仕切って、会計と計算とに使っていた。上り口かまちから少しおいて、販売係は北から南へ、中野、渡辺、藪内、岩尾という順序で東向きに座って、まえに大きな木製の角火鉢(夏は煙草盆に取り替えた)をひかえ、座席の右側へはこの箱を置いて、来客と対談したのである。すべてこの頃の商店は、大きな算盤で値段の取り決めをする習慣になっていたが、時にお客と値をせり合った上、大口の手合が出来た場合などは、算盤を投げ出し、双方両手を打って大変景気のよいものであった。
販売係は前垂れ掛けに羽織を着て、紺の小倉の角帯に煙草入を差し、煙草をポンポンはたきなどして商談するのである。店主はたえず外出されることが多かったが、中野さんの横に、北から南を向いて座られて、銀の煙管でスパスパと、いつでも何か考えてござった。
毎日みえる紡績の販売員さんも皆んな和服で、この火鉢の前に座り込んで、ゆっくりと商談して帰られるので、お客への売行を見て買付けしたり、売れるだけ売ってもらう便利があった」

1904年、日露戦争が始まると、軍需綿布と海外からの注文が殺到して紡績業界はさらに活況を続けた。この間、後に関西五綿(丸紅、伊藤忠商事、日綿実業、東洋綿花、江商)、船場八社(又一、岩田商事、丸栄、田附、竹村綿業、竹中、豊島、八木)と呼ばれる糸商、及び伊藤万、山口玄、田村駒、稲西などの洋反物商がそれぞれ躍進を続けていた。

赤レンガ造りの本店(1913年)
拡大
赤レンガ造りの本店(1913年)
大阪船場地図(大正初期)
拡大
大阪船場地図(大正初期)

1913年、八木商店は創業20周年を迎えた。日本の産業界は明治40年代に入ると慢性的な沈滞期に入り、紡績業も国内市場の需要が伸びず、その上中国への輸出も頭打ち状態で不況ムードになっていた。しかし、八木商店は営業努力を続け着実に向上の一途をたどった。

この年與三郎は、創業20周年を記念して企業近代化への脱皮を決意すると、資本金を一挙に50万円に増額、店舗を赤煉瓦造り2階建ての洋館に改築した。販売台が新しく登場、同時に集金係と電話係に女子店員を採用、江戸時代から続いてき た「××どん」の呼び名を廃止、「君」付けに改めた。いずれも新しい試みで、個人商店としては破格の刷新であっただけに、船場の商家はむろん、多くの人々の関心を引いた。わざわざ遠回りをしてまで見物に来る人もいたという。

創業25周年記念(1918年10月)
拡大
創業25周年記念(1918年10月)


1918年、八木商店は創業25周年を迎え、社員は200余名になっていた。4月28日株式会社に組織変更をした。

当時、入社した社員は、入店すると2,3カ月は荷造りと集金係を手伝った。集金係は集金の仕事のほかに、得意先の店舗の構え、従業員の多少、店内の整頓、店員の気風、資金繰りの状況等を見届けることが大事な役目の1つになっていた。夜は送り状を筆写して、得意先の所在地、取扱い商品、取扱い運送店を覚える。次の3,4年は受渡係として、取引の実状を勉強し、一人前の販売係になるには少なくとも10年の歳月を必要とした。

株式会社設立に当たって、重視されたのは営業部門である。綿糸部、綿布部、貿易部、満州部の4部に分かれていたが、中でも貿易部門が強化された。

「堅実主義」と社是「終始一誠意」

社是<br/>(関牧翁師謹書)
拡大
社是
(関牧翁師謹書)

「人に説明できるだけの理由をもってやりさえすればよい。そうしたら過ちはなかろう」と説いた創業者與三郎。
そして、大正時代、天皇のご宸筆「終始一誠意」に感激し、社是とした。

“一貫して誠意を持って当たれ”
現代も脈々と受け継がれている……。

明治時代の物価

※資料:「二十世紀のあゆみ」および「大阪百話」

ビール大ビン1本

14銭

1892年(明治25年)

新聞購読料(朝日・朝刊のみ)

28銭

1891年(明治24年)

駅弁

7銭

1888年(明治21年)

鉛筆1本

1厘

1887年(明治20年)

きつねうどん

1銭

1893年(明治26年)

卵(1kg)

16銭

1889年(明治22年)

JR普通運賃(大阪-東京)

3円56銭

1889年(明治22年)

しょうゆ(1.8リットル) 9銭

1893年(明治26年)

白米(10kg)

46銭

1887年(明治20年)

日本酒(1.8リットル)

14銭9厘

1889年(明治22年)

コーヒー(1杯)

1銭5厘

1888年(明治21年)

理髪料金(大人)

5銭

1890年(明治23年)

創業時代の引き札

※引き札:商品の広告・開店・売り出しの披露などを書いて配るチラシ。