1865年、京都で米穀商を営む両親のもとに生まれた八木與三郎。その人生は常に挑戦とともにあった。15歳で酒屋に引き取られるも「日本一の商売どころの大阪で一旗あげよう」と、誰に断りをいれることもなく18歳で大阪行きを決意。大阪の実業界で名を馳せた叔父の藤本清兵衛が営む米穀店を訪ね、そこに住み込みで働きながら商売を一から学ぶ。その働きぶりはいたく熱心で、当初「親戚ということでは置かん、つまり、よそから来た丁稚並みに置いてやろう」といった叔父が、ついには「ちと保(與三郎の幼名は保次郎)を見習え」と口にするほどだった。やがて転機が訪れたのは21歳の時。父が他界し、その2年後には営んでいた米穀商が倒産。その後すぐに叔父の清兵衛までも他界。この窮地に與三郎は独立を決心し、さらには「どうせ始めるなら紡績糸の商売をやろう。新しい事業というだけで張り合いがある。」と、これまで無縁の業界での起業を志したのだ。当時、すでに成長の兆しを見せ始めていた紡績産業。與三郎のその目には、明るい未来へと続く道筋がはっきりと見えていたのだろう。
こうして1893年10月16日。間口2間半(約4.5m)の小さな綿糸商として八木商店は開店の日を迎える。起業以来、常に挑戦心を大切にした與三郎であったが、一方で経営については「堅実第一主義」の考えを貫いた。「ビジネスは運に任すのではない、石橋をたたいて渡る堅実さが船場商人の道である。」と説き、合理性を身につけた商人道を確立したのだった。そんな経営哲学に加えて、與三郎が大切にしたものがもう一つ。それは、現在の社是である「終始一誠意」の精神だった。“一貫して誠意をもってあたれ”というこの言葉は、125年以上の時を経た今も継承され、ヤギのビジネスマインドとなっている。
紡績糸の商売を始めた與三郎は、綿糸の品質にも徹底的なこだわりをみせた。当時の日本在来の綿糸は糸車で手引きしたものでぶくぶくと膨れているが、與三郎が目をつけた鐘紡(その後、カネボウ株式会社となり、現在はクラシエ)の糸はよく撚れており、非常に質が高いものであった。ところが、いっけん痩せて見えることから、世間ではその真価が認められなかったのだ。そこで、與三郎は、「鐘紡の糸はよく紡いである」という糸の鑑識眼を持った糸商人の評価を利用するよう鐘紡の兵庫支店支配人である武藤氏に進言。誤った観察にとらわれている需要家たちに対して宣伝戦を開始すると鐘紡の糸の評価はみるみる高まり、鐘紡の名と糸は世の中に広まっていった。與三郎は鐘紡製品の取扱いに全力を注ぎ、いつしか鐘紡は日本有数の企業へと成長する。
與三郎の挑戦心はとどまることを知らず、その後も勢いを増していく。1895年には、日清戦争の終結と同時に海外輸出に踏み切るなど、「堅実第一主義」「終始一誠意」を礎に、常に新たな挑戦によって事業を拡大していったのであった。